「誇り ドラガン・ストイコビッチの軌跡」

2009年04月09日 23:47

誇り ドラガンストイコビッチの軌跡




大分古い本で恐縮なんだけれど。





読みやすく、ものの数時間で読了。
ただ、内容は重厚でかなり引き込まれる。
「オシムの言葉」同様、メインストーリーは旧ユーゴの分離独立。
何でこの本を選んだかと言うと、この問題について身近なサッカーを通して知りたかったから。
ストイコビッチのストーリーにも勿論興味があったし。





文中にもあるが、社会主義時代にはユーゴは多民族でありながらも
民族同士が融合した幸せな国家(それがどこまで真実なのかは分からないが)
だったのが、ベルリンの壁崩壊以後自由経済が反映された結果、
南北での経済格差が発生し、各民族が分離独立を望むようになった。
そして結果的に「昨日まで仲良くしていた隣人と殺しあう」
という痛ましい戦争になったと言う。




旧ソ連や北朝鮮のような閉鎖的な社会主義国を世間が象徴的に取り上げることで、
小さい頃から「民主主義の正義」みたいなものを刷り込まれてきたけれど、
ユーゴの件を色々と知るにつけ、何が正しいのかなんて分からなくなる。




ピクシーがベローナで(彼がエラスにいたってのもビックリだが)チーム関係者に
「おまえらはモンスターか?」と言われたというエピソードや
ユーロ本戦の出場を取り消され、代表解散の裁定が下され
空港を出ることもできず、チームメイトと共に悲嘆にくれたというエピソードには
ただただやるせない気持ちにさせられた。





そうした重たい話の一方、ピクシーのプレーについては非常にきらびやかに書かれていること、
民族同士で憎しみあい、散り散りになってしまった「元の仲間」達に対し「サッカーは関係無い」
と当時のプレーを楽しそうに語るピクシーに、読んでいて何度も救われた気持ちになる。



これまで凄い選手・カードホルダーってことくらいしか認識が無かったけど、
ストイコビッチという人間的な魅力的な人物に改めて出会えた気がする。





作者の木村さんは旧ユーゴについて非常に明るいし、
川渕発言の際には日本サッカー界の為にかなり熱く抗議したり、
サッカー寄りの方だと思っていたんですが、
旧ユーゴについてはこの時の取材が初めてだったようだし、
ピクシーがきっかけでサッカーへの関心が湧いたとのことで、少々意外だった。
しかもジャーナリストになりたての頃の処女作だった、ということ。
「オリム~」辺りに比べると確かに構成とかが甘い感じがするけれど
取材対象者に対して熱く、徹底した取材に基づく濃厚な文体はこの頃から変わらず。




金子君辺りに、この人の爪の垢を飲ませてやりたい感じ。
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狂熱のシーズン-ヴェローナFCを追いかけて

2006年02月11日 02:05

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狂熱のシーズン―ヴェローナFCを追いかけて
ティム パークス (著), Tim Parks (原著), 北代 美和子 (翻訳)



年末年始にかけ、念願だった「狂熱のシーズン~ヴェローナFCを追いかけて」を読了。
以前新宿の紀伊国屋で見つけながらも、あまりの値段の高さに「トウキョウワッショイ」を共に買おうとしていたので断念していた。群馬の本屋で探すもなく、小遣いも少ないのでなかなか買えずにいたところ、
高崎市の図書館で発見。誰のリクエストか知らんが、やるなあ、高崎市民も。
恐らくはザスパサポだろうね。


ストーリーは、金の無い弱小セリエAチーム、ヴェローナFCの2000~2001シーズンのホーム・アウェイ全試合を同サポーター達と共に追いかけたイギリス人の話。
結局プレーオフまで交えた長い長い1シーズンを、それこそ400ページオーバーの本に綴られた物語を読んで思うことは、やっていることや感じることは、カルチョの本場だろうと、サッカー後進国の日本だろうと、なんら変わらないということを確認できたこと。
違うのは根の文化、そしてそのお国がらから、ちょっぴり向こうの方が表面的に過激だということ。
そしてスタジアムには警察がいること。


人種差別的コールを繰り返すヴェローナのサポーター集団「ブリガーテ・ジャッロブルー」は、マスコミやジャーナリズムの格好のネタであり、これらの行為を「ニュース的」に見聞きし、意見を求められれば、間違い無く100人が100人「No」というのが正常。
ただ、スタジアムやアウェイを旅するにあたって「エラス・ヴェローナ」の旗の下に集まった同士達が、日常から「非日常」となる週末のひとときを、対立する地域同士が戦争のパロディをする為に、互いに欠かせない一つの要素としてそのコールがどうなんだ?と問われれば、ニヤっと笑って「No Coment」と答えるに決まっている。



イギリス人の作者は、イタリアのコミュニティについての一つの見解として「会話に加わろうとする人間全てにとって、もっとも重要かつ必要であるのは、言葉と仕草を通して、他者に対するあらゆる軽蔑を示し、他者がもつ自尊心を可能な限り完全に破壊し、他者自身への不満、そして結果として話し手への不満を抱かせる才能である」というレオパルディが述べた論を引用している。
よって、サポーター自身のアイデンティティを示すためには、他者に対する罵倒が必要不可欠だということ。
そうやって、本質的な意味でスタジアムで単に応援し、チームと共に戦うというだけでなく、その「口撃」で相手を怒らせることができれば試合とは関係無く一つの勝利を得ることもできる。
自らが相手よりも優れていることの証明。歪んだ形でのクラブ・ホームタウンへの愛・忠誠心、というか、完全なる自己愛。
結果、他のスポーツと違い、フットボールクラブは選手ではなく、サポーターがスタジアムでの主役と成り得るのだ。
闘わない選手達に対し「おまえらはジャッロブルーに相応しくない、俺達が唯一それに相応しい」(文章うろ覚えだが、こんなニュアンス)と言い切ってしまうブリガーテ達はまさにそうだ。「世界と一人で闘っている!」


面白いのは、過激、と言われる彼らにしても確かにコカインやアルコール中毒者、頭のおかしいヤツ等も多くいるのだけれども、実際にはイタリア北部のヴェローナの街の住民であり、それなりの家庭、暮らしをしている者も多くいるわけであり(作者もそうだ)、常識人や家庭人であるということ。
乗り物から乗り出して差別的コールを共に歌っていた若者が、その時かかってきた母親からの電話で「夕飯は家で食べるよ」と普通に話した後、再びコールに参加する遠征の描写は、まさしくそうだ。
そして、その彼らが、分け隔てなく共に行動し戦っているのは、その人種差別的コールと「ある意味で」矛盾しているわけで、ここに本質がある、と思っている。



皆、スタジアムでは自らが眼前で行われているサッカーに参加し、「戦争のパロディ」を本気で(←ここが重要)、夢中になって演じているからである。
投石や威圧行為はあるものの、実際にスタジアムで暴力をふるうのは、彼らフーリガンをなにかにつけ痛めつけてやろうと虎視眈々と狙っている警官のみだ。


そして、それが理解出来ない「外の世界」の人からしてみれば、彼らは単に酷い「人種差別主義者」であり「粗暴でクソのような集団」と言うに決まっている。
彼ら「ブリガーテ・ジャッロブルー」も自ら「メルダ」(クソ)という単語を使って自分達を、その境遇を自虐的に語っているように、ロクデモナイことをやっていることなんて判った上でなお、必死で演じているのだ。
当事者以外、否定も肯定もする必要の無い世界。
本当に正しいことなんて、一体誰がわかるというのだ?


と、この本についてはサポーター論の際に散々語られてきているので、今更内容を論じる必要も無い、
と書くつもりが、熱くなってしまった・・・

単純な物語として、面白かったのはシーズン終了間際のセリエA残留か、B降格かのサポーターの浮き沈みもそうだが、最初の作者初めてのザンジバールバスでのアウェイ旅行。
読んでいてワクワクした。ここがこの本のクライマックスといってもいい?
そして、知らなかったが、若き日のジラルディーノやらムトゥやらカモラネージやらがヴェローナの選手として出てくること。ジラルディーノは車で事故したのは、このシーズンだったのね。


あと個人的に。
義兄がイタリア人で、姉と向こうに住んでいる。
いつもイタリアに来い来い、と言うので行ったらスタジアムに連れて行け、というとあまりいい顔をしない。
彼はユーヴェのファン(かなりミーハー)なのだが、トリノは遠いから行かないにしても、地元のチームのスタジアムには決して行かないらしい。
何故なら、やはり危険があるからいく気にならない、サッカーは、テレビで観るものだ、という。
一般のファンの気持ちとしては、こうなのだろう。
セリエAの観客動員が落ちているのもわかる。


今年も恐らくこの義兄は姉と日本にやってくる。
毎年冬、昨年は私の結婚式に合わせ、Jの試合の無い6月に来たので、
今年こそ実家近所の味スタに連れて行きたいと思っている。
そこで、Jのスタジアムの雰囲気を見聞きし、彼がなにを感じるか?
それを聞き出すのが楽しみだ。










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